ミリティーニ村の白い壁

アマム

2011年02月24日 22:50

ケニアの大西匡哉さんより・・・ミリティーニ村の現状が届きました。

数年前にできたミリティーニ村の白い壁。




僕の師匠のマテラ長老の産まれた家が、この壁の中の場所にあった。
(※マテラ長老は「世界中の大人は全ての子供の親である」というポリシーの元、スラムでPTSDになった子供たちを約30人村で受け入れ、村のみんなで伝統的な暮らしをしながら育てている。子供の家ジュンバ・ラ・ワトトの代表。ドゥルマ民族である彼らは先住民であるため大地は誰のものでもない土地を所有するという概念がないために、長年住んでいても土地の所有権が無いために勝手に土地が売られてしまいます。。。)
思い出す限り、40~50ぐらいの世帯の人たちが暮していた。

集落の広場には、大きな大きなニームの木が人々の生活を見守るようにそびえていた。ニームの木は40種類の病気に効くと言われ、人々はマラリアや腹をくだした時、その苦い葉っぱの煮汁を飲んでいた。

その木の下で、何度も何度もセンゲーニャの祭りや様々な伝統儀礼が行われた。
ヤギや鶏たちが自由に歩き回り、いつも子供たちの笑い声が絶えなかった。
村全体が一つの大きな家族のようだった。






そこへ突然、この土地の権利書を持ったアラファトというアラブ系インド人が現れ、村人たちに立ち退きを要求した。
ここは彼らが先祖代々から暮らして来た土地。
ここを追い出されたら他に行く場所もない。

マテラ長老は村の代表として、アラファトと話し合った。
何ヶ月にも及ぶ粘り強い交渉の末、立ち退きの条件として権利書付きの別の土地を要求し、
アラファトはそれを了解した。

人々は別の土地に移住して行った。
大きな家族はバラバラになり、ある者は土地を転売し、その金で酒に酔いつぶれた。


数ヶ月後、集落のあった場所はサッカーのグラウンドが何個もとれるくらいの広いさら地になり、
更に数年後にはそこは白い塀で囲われ、中がどうなっているのか全く見えなくなった。

当初そこはコンテナヤードになると言われていた。
そこはモンバサの港からそれほど遠くない場所にあり、ナイロビや内陸の国々へ向かう幹線道路に面している。 しかし、いつまでたってもコンテナが運び込まれる気配はなかった。



それからしばらくしてこの壁の目の前で、トラックの事故や列車の脱線事故が立て続けに起きた。(写真)



先週、この壁と文字道理背中合わせで暮らすジュマーというおっちゃんに訪ねた。(写真)

「いったいこの中には何があるの?」

「キリンカだよ。」

「キリンカって何?」

「セメントの原料だよ。これが厄介でさぁ、風邪に飛ばされて粉塵が舞うんだ。
おかげで咳は出るし鼻水はたれるし、子供たちは結核になるし、赤ん坊は死ぬし。」

「え”え”~!!!それって毒ってこと!?」

「そうだよ!毒だよ!つい2週間前にも、赤ん坊を一人埋葬したところさ。ひどいもんだよ、俺の娘も1歳になるけど、一昨日肺の検査に行って来たところだよ。もうこんなところには住んではいられないよ。ほら見てごらん、風で粉が舞ってるだろ」

ジュマーの指差した壁の方から、白い小麦粉のような粉塵が舞い上がった。


周りにいたおいちゃんおばちゃんたちも、皆口々に粉塵による被害を訴えてきた。
村のみんなで苦情の訴えを地区の役所に出したらしいが、全く相手にされなかったらしい。

ナイロビに帰ってからキリンカについて調べてみると、セメントの原料でクリンカというのを見つけた。どうやらこれらしい。 クリンカは石灰石、粘土、珪石、酸化鉄を粉砕機にかけてそれを1,450℃の高温で焼き、更にそれをいっきに冷やしたものらしい。 1,450℃もの高温で焼くのは、水をくわえると固まる性質を作るためだそうだ。

という事はクリンカは水に触れると固まるってことか。 肺に入っても固まるんじゃないか?





ジュマーの家の2軒となりにはカテンベの実家がある。
マテラ長老の第一夫人の家は反対側の壁の向こうにあるし、仲良しのベマテーモの家もある、
その向こうにはジュンバラワトト(子どもの家)もある。

モンバサの港から輸入されたクリンカは、この白い壁の中で一時保管され、アティリバーや隣国ウガンダのトロロなどのセメント工場に運ばれていく。 目下経済成長中のケニアでは、何処もかしこも建設ラッシュでセメントは飛ぶように売れのだろう。


しかしその陰で命を落としている赤ん坊がいるとしたら、あまりに悲しすぎるではないか。

村の人たちはこの壁と、ただうまくつきあって行くしかないのだろうか?


大西匡哉

関連記事