ドゥルマ民族マテラ長老伝統継承者就任の儀式

アマム

2018年01月22日 19:28

【ドゥルマ民族・マテラ長老の伝統継承者就任の儀式について】

【マテラ長老の伝統儀式を可能にするためのカンパを集めます。以下に説明文がありますので、興味がある方はお読みください。】
急なお知らせですが、大きな伝統儀式が行われることになりました。
ドゥルマ民族のカヤ(聖地)に滞在して儀式を行います。めったにない機会なので、興味がある方に体験していただけるよう、大西匡哉さんと私とで、希望者を取りまとめて案内することになりました。




この伝統儀式は、ドゥルマ民族の伝統継承者、12名の旗持ちと言われている長老たちがいますが、マテラ長老がその旗持ちに就任するための儀式だということです。
マテラ長老について、そして、この儀式を急に執り行うことになった経緯について記しますので、興味がある方はお読みください。


マテラ長老はドゥルマ民族の伝統呪術師家系の末裔で、両親、祖父母、曽祖父、そしてマテラさんの奥さんも、みんな伝統呪術師です。
ドゥルマ民族はケニアの海岸地方に暮らすミジケンダという9つの民族のグループに属します。インド洋から少し内陸に入った丘陵地帯や森、海辺に暮らし、自然の中で自給自足型の生活です。海の幸も取りますし、畑を耕し、ヤギや鶏などの家畜を飼育し、ヤシの木・マンゴー・パパイヤ・カシューナッツ・バオバブなど、様々な自然の恵みの中で暮らしています。


ドゥルマの暮らしは、タイコを中心として、音楽や踊り、祈り、呪術が一体となって生活の中に有り、精霊を呼び病気治療や暮らしの中の問題、社会の中のわざわいなどを解決していくことが彼らの伝統文化であり、生活の中でそれはとても重要なベースとなっています。
マテラ長老は伝統呪術師ですが、タイコ名人でもあり、伝統文化を継承し実践する人です。生活自体は普通に村で自給自足をして暮らす農民です。
彼の得意分野は、精神に異常をきたした人のための治療で、その治療を受けるために遠い地域や、時には国境を越えて多くの人々が訪れていました。





私がマテラ長老にはじめて出会ったのは2004年のことで、友人であるミュージシャンの大西匡哉さん(マサヤ)がケニアに伝統的なタイコの修行をするためにやってきて、マテラさんに師事したため、そのきっかけで出会いました。
はじめて出会ったときから私はマテラさんと気が合って、その後いろんな活動を共に行うようになりました。そのときちょうどマテラさんの父親であり偉大な伝統呪術師であったムゼーマサイが病に伏して、亡くなり、死後40日目に4日間に渡って行う儀式の直前でした。その伝統儀式に参加したことが、それから長く深く付き合うことになる、ドゥルマ民族の伝統文化の真髄に私がはじめて触れる経験となりました。

ドゥルマ民族の伝統文化に魅了された私は、それからマテラ長老に教えを請い、奥地の村まで連れて行ってもらい、「カヤ」と呼ばれるドゥルマ民族の森の中の聖地や、歴史的にも意味が深い霊山や、昔の伝統呪術師の墓参、そして奥地の村で暮らす人々の生活を訪ねるようになりました。


それと同時進行でマサヤの伝統音楽の学びがあり、村の人々が素晴らしい伝統音楽や文化を守ってこうして生きている姿に感銘を受けつつも、それと同時に彼らが接している厳しい現代社会事情を知るようになりました。
自然の中で伝統的な暮らしを守って生きてきた彼らのもとに、近代化の波はひしひしと押し寄せていて、その中で彼ら自身が混乱するような出来事が多々起きていました。





例えば、伝統医療が発達した彼らの文化は、呪術的な力と、自然の中の薬草や薬木の知識と、自然や祖霊を崇拝する信仰の力と、大自然の環境と、そんなすべてのバランスの中で暮らしや生や死や、病や苦楽が存在して成り立っていたけれども、開発や近代化はすぐそこまで来ていて、自然の力だけに身をゆだねることはできない世の中になってきていました。彼ら自身が伝統のみで生きられない様々な事情にさらされていました。
伝統文化は好きだけど、学校にも行きたい。病気になったら病院に行って西洋医学にも頼りたい。そうなるとそれにはお金が必要で、お金が無くては学校にも行けず病院で医療も受けられない。しかし現金収入の手段がない。かといって、伝統医療だけではもはや病気が治せなくなっていました。中途半端に化学的な薬にさらされた体は、薬草が効かなくなった。そもそもが、その薬草を手に入れたくても自然が破壊されていく中でそんな薬草が見当たらなくなった。以前は病気になってもすべて神様や精霊におかませしてきたが、それだけではない別の方法がすぐそばにあると、それに手を出したくなるものです。でもそれでも伝統的な方法を信じる力も根強い。


時代の波は容赦なく彼らの生活を巻き込んでいき、彼ら自身も翻弄され、価値観の混乱を招いていました。若者たちは、街の文化が気になる。長老たちは伝統文化を守りたいが、子どもや若者たちは学校に行くのに忙しくて伝統的な学びは十分できない。そしてそれ以前の問題として、彼らの豊かな自然は開発の波に急激にさらされていました。



東アフリカ有数の貿易港、モンバサ港がすぐそばにある彼らの地域では、工業開発、インフラ整備、港の拡張、発電所の建設、港の保管所となるコンテナヤードの建設、バイパスや国際ハイウェイ、国際列車の線路の敷設など、みるみるうちに計画が進んでいき、彼らが昔から自給自足をして生活をしてきた村々では、彼らのもとに土地の権利が無くなり、立ち退きを命じられるようになりました。



2004年にこの村にはじめて出会ったとき、まだ自然豊かな昔ながらの暮らしがそこにあったけど、まさにその場所にどのような政府の開発計画があるか私は知っていたので、5年後、10年後にどうなっていくか目の前に絵が浮かぶくらいに想像がつきました。しかしそれが彼らの力では止められるようなレベルのものでもないと感じていました。そもそもが、彼らにその未来予想図を話して警告しても、まるでピンとこないようでした。ただ、生活が大きな変化に見舞われて昔と違うものになってきていることは誰もがうすうすは感じていたと思います。



マサヤはマサヤで、自分の音楽の学びのために村に住み込んで、マテラさんの一家と家族同然の関係となっていき、生活を共にしていました。そこで仲良くなった子どもたちの中に、本当にあっけなくマラリアで亡くなった子どもがいました。数日臥せっただけで死んでしまった。お金がないので医療が受けられなかった。子どもを失って悲しみに暮れるというよりは、そんな状況にただ受け身であきらめるしかない母親の様子を見て、この無力感は何だろうと思ったマサヤは、どうにかできないものかと思い、私にそのことを話しました。それで私たちはJIWEというプロダクションを作り、村の奥地で伝統音楽の収録をしてCDを制作することに取り組みはじめました。

2005年にCDが完成し、それを販売して収益を村の人々に届けることをはじめました。同時進行で、そんな伝統文化や暮らしを学び体験するためのスタディツアー、日本でのイベントツアーなどを行い、利益を還元し、世界の状況から村の人々も学び、自らの未来を考え選択することが可能になる道を作りたいと思いました。

2006年に村の子どもカテンベ君の腎臓移植手術支援、マテラ長老の来日、ピースボート乗船、村でのスタディツアー受け入れ、と、活発に活動が広がっていき、数多くの日本の方々も村を訪問し、ライブや講演で事情を知り交流していきました。



そんな中、私たちの活動よりももっと早いペースで、国の開発事業は進んでいき、マテラ長老の村には工場が建ち、高速鉄道が通り、近代的な駅が建設されていきました。その一連の建設の経過で、彼らは集落ごと立ち退きを命じられました。私の好きだった自然の中で生きる彼らの暮らしぶりや、地域社会のつながり、伝統文化、自然そのものも、ことごとく壊れていきました。村に行くたびに様変わりしていく様子を見ているのが私も耐えられなくなってきたことと、マサヤが8年間生活したケニアから日本にベースを移したことも重なり、2015年ごろから、私はしばらくドゥルマの世界から距離を置くようになりました。キベラスラムのほうも次々と事件が起き、目まぐるしい変化に見舞われていったせいもあります。




ところが、昨年、2017年10月のことです。ドゥルマのコミュニティと3年間ほど距離を置いていた私に、マテラ長老が瀕死の状態だという知らせが届きました。ちょうどその頃、マサイのジャクソンさん&永松真紀さんとマサヤとの日本講演ツアーの旅の最中に、病の床に伏したマテラさんの写真が送られてきました。

この数年、彼自身このような時代の波に巻き込まれて精神が混乱をきたし、私たちにとって残念な出来事のニュースがそれまで何度も入ってきていました。巨大な駅が建ち、国際ハイウェイの中継地点となったミリティーニ村では、深刻な土地問題をめぐっての地域住民たちの骨肉の争いが巻き起こっており、そんな中でマテラさんも長老らしからぬ行動を起こし信頼を失い、とても我々には介入できない醜い闘争が村の空気をとても悪くしていました。実際には、人間関係の空気が損なわれただけではなく、マテラ長老の集落だったところが強制撤去されてそこに建った化学薬品の工場が公害を出し、村人たちには深刻な健康被害が出ていました。

マテラさんの病床の世話をする弟のサイディからのメールによると、病の床からマテラさんが言ったのは、プングワという伝統儀式を行いたい。という言葉でした。その儀式を行わなければ、心残りすぎて死ぬに死ねない。という言葉に聞こえました。
この儀式は、ドゥルマの伝統継承のための重要な儀式で、以前にもその話を何度もマテラさんから聞いたことがありました。マテラさんはムゼーマサイ(父親)がまだ生きているときに、この儀式を行うことになっていたのだが、ムゼーマサイが病気になり、そして死んで、その前後から急激なコミュニティの変化がはじまり、そうこうしているうちにタイミングを逸してこの伝統継承の儀式が行えていないということでした。
ドゥルマのコミュニティでこの伝統儀式を最後に行ったのはいつだったのか、と聞いたら、1970年代だったと思う。という返事でした。それが正しければ、もうかれこれ、40年以上もこの儀式は行うことが出来なかったということになります。





私は、非常にお世話になったマテラさんに、このままこのような悔いを残して死んでほしくありませんでした。これまでの混乱の中で彼がいかに不可解な行動をとり、いかに信頼を失っていたとしても、それが彼の真実のすべてとは思っていませんでした。長年マテラさんと共に行った様々な活動、私自身がマテラさんにいざなってもらったドゥルマ民族の伝統文化の深遠な世界、何度も感じたことのあるこの世の世界(目に見える世界)とは違う感覚、そして今の破壊されつくした村の姿、村人たちの中にある不和や軋轢など、いろんなことが思い起こされました。骨と皮のようになって死の床に伏しているマテラさんの姿を写真で見て、彼が望む伝統儀式を何とか行う方法はないだろうかと思いました。
2017年11月20日に私は日本でのツアーを終えてケニアに帰ってきたのですが、その時に、マサヤからマテラさんへのカンパを預かりました。それを持ち帰り、食料と薬を買い、少しでもいいからセンゲーニャ(マテラさんがつかさどるドゥルマ民族の伝統的なタイコ)をマテラさんに聞かせてあげて欲しいと、マテラさんの病床の世話をする弟のサイディに託しました。

すると、その数週間後、サイディから写真が送られてきました。何と、マテラさんが自分の足で立って、ンゴマ・ンネ(音程の違う4つのタイコをメロディアスに叩く、これがマテラさんのクランの伝統の真髄のタイコ)を叩いている姿でした。
まだ骨と皮のようにやせ細った状態だけど、立ってタイコを叩いている姿に驚きました。すぐに電話して聞いてみると、あれからすごい回復ぶりで、座れるようになり、立てるようになり、自分でトイレに行けるようになり、食欲が出て、ほらこうしてタイコ叩いているよ、と、サイディが言いました。

それからぐんぐんと回復していったマテラさんは、電話で話ができるようにもなりました。サイディが言うには、食欲がすごい、普通の人の二倍は食べている、ということです。
この元気回復がいつまでも続いてほしいですが、とにかくマテラさんが望んでいる伝統儀式を行えるように、出来るだけのことがしたいと心から願います。もう何十年も行っていない儀式です。そして今後も、この時代の変化の波の中では、そんな機会がまたやってくるかどうかわかりません。もうこのまま廃れていってしまうのか、形が変わっても大切な何かだけは残っていくのか。それは今の時点では私にはまったくわかりませんが、とにかくいまマテラさんが生きているうちに、彼の望む儀式を行える状況を作りたいと思いました。





マサヤと相談し、私たちが2005年に制作したCD「センゲーニャ~東アフリカの伝統音楽・ドゥルマ、ディゴ、ラバイ」(2500円)の売り上げで、まだ関係者に利益還元をしていなかったこの2年間分の売り上げを全額、儀式のために寄付をしようと決めました。

このCDは、2005年から販売を開始して、13年になりました。これまでの売り上げはすべて記録して、何回かに渡って、このCD制作に関わった人々に還元をしてきました。レコーディングに参加した150名の村人たち、その取りまとめをしてくれたマテラさん、サイディ、ジャケットのデザインをしてくれたデザイナーの友人や、レコーディングをしたマサヤ、その手伝いをして解説も買いた私など、各自にパーセンテージが決まっていて、還元するシステムを作っていました。


しかしその還元も10年を超えました。村人たちの中には故人になった方々も多く、そもそもこれはドゥルマの伝統文化を形にして利益をドゥルマのコミュニティに活用してもらいたいと思って作ったCDでした。2016年と2017年の2年間の売り上げはパーセンテージでの各自への還元はせずに、売り上げの合計金額すべてを伝統儀式で使えるようにとマサヤと話し合いました。(約30万円になっています。)


しかしこの金額だけでは足りません。なぜかというと、この伝統儀式は7日間に渡って行われ、各地に散らばっている奥地の村から、12人の旗持ちとその側近たちを呼び寄せ、奥地のカヤ(聖地)を守る伝統呪術師を呼び、様々な村の普通の村人たちにも呼びかけ、彼らに食事をふるまい、祭りを行う音楽家たちにご祝儀を払い、交通費を払い、寝床を用意し、牛とヤギを屠ることが必要になります。また、ご神事を行うために森の奥のカヤ(聖地)まで出向きます。
そのようにとても多くの人々が集まることになりますが、彼らの村は昔のように自給自足で十分な作物を得ることは難しく、多くの畑や、収入源となっていたヤシの林、住居そのものも失い、ちりじりばらばらになったり、日々の生活を成り立たせるために低賃金の日雇い労働に出ていかねばならない者も多く、この10年というもの、以前よりも増しての生活の困窮に見まわれてきました。彼らもやはり祭りが好きで、このような祭りがあれば、誰もが出かけていきたくなりますが、こういう祭りを行うことも経費がかさみ、満足に行えないようなご時世になっていました。






そこで、ケニアに行ってその儀式を経験することは出来ないけれども、これまでの13年間にマテラさんに出会ってくださった方々、お世話になった方々、会ったことはないけどこの状況に心を寄せてくださる方々、どなたでも、もしもカンパをしてくださる方がいらっしゃいましたら、お助けいただけるとありがたいと思います。


そのカンパの取りまとめをすることを、大西匡哉さんの奥さんの奈津子さんが引き受けてくれました。私たちのCD制作の活動であるJIWEのゆうちょ銀行の口座がありますので、そちらにカンパをお送りいただき、メールでご一報いただけましたら、その金額を取りまとめ、ケニアに向かうマサヤに持ってきてもらいたいと思います。
この儀式にいくらかかりそうなのか、いま村のほうで計算をしてもらっているところですが、あればあるだけ出来ることがありますから、準備と同時進行でカンパ集めもはじめていきたいと思います。

口座とメールアドレスは以下の通りです。
●ゆうちょ銀行 記号15460 番号 11650131 名義 ジウェ
●他の金融機関からの振込の場合
ゆうちょ銀行
【店名】五四八 【店番】548【預金種目】普通預金【口座番号】1165013 
●メールアドレス(大西奈津子)
happyfruit46@hotmail.com

振込金額とお名前、メールアドレスを記載いただけましたら幸いです。




私は、高速鉄道の駅が出来たミリティーニ村で、マテラ長老と共に、2005年に「ジュンバ・ラ・ワトト(子どもの家)」を設立し、日本の皆様に資金援助もしていただき、キベラスラムの生活困難な子どもたちや孤児を、この村で受け入れて育ててもらってきました。32名の子どもたちが暮らす児童養護施設で、現在は「マゴソスクールを支える会」がマゴソスクールと共に運営をしています。現在も続くこのジュンバ・ラ・ワトトは、これまでに多くの卒業生を出して来ました。いつも私の講演で話す、浮浪児だったトニー君や、エミテワちゃんと弟たち、現在日本に留学中のアグネスちゃん、など、いま高校生や大学生になっている卒業生もいます。キベラスラムで貧困の中、苦労してきた子どもたち、痛みを抱えた子どもたちを、この村の人々は本当に暖かく迎えてくれて、愛情を持って育ててくれました。

いまミリティーニ村が開発により大きく様変わりしたとはいえ、私たちはこの子どもの家を今も運営を続けています。
儀式を行う森のカヤに向かう前に、このミリティーニ村は通り道ですので、立ち寄って、子どもたちや村の人々に出会い、開発の様子も見てもらいたいと思います。そしてそのままさらに進んでいき、本来のドゥルマ民族の暮らしが、どんな豊かな自然の中で生き生きと息づいていたかを見てもらいたいと思っています。

そこで行われるご神事と、多くの村々から集まってくる人々、そして、儀式の最終日には大きな祭りを行い、めったにない機会を目撃するために、ケニアの文化省の役人さんたちや、ケニアの国立大学の伝統文化研究の教授とその生徒たちも来るそうです。
ケニアの今と、本当に豊かな伝統文化を共有するために、一緒に旅が出来ればと思います。
興味がある人は少し急ぎでご連絡ください。



それと、この話を写真からも感じてもらうために、ここに写真をいろいろ載せていきたいと思います。これまでスタディツアーで村を訪問してくださった方々で、この写真をぜひ見せたいというものがあったら送ってください。皆さんに見ていただきたいと思うので追加で掲載していきます。
すごいスピードで世の中は変化していきますが、今をよく見つめ、かつてどうだったかを覚えていたいです。そして、それを次の世代の人たちにも語り継ぐことができたらと思っています。今後の未来を考えていくためにも、世界のいろんな人々の変化の例を知ることは意味があることだと思います。

長文をお読みいただきありがとうございました。また儀式の様子もお伝えしたいと思います。
2018年1月8日 ナイロビにて。
早川千晶

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