ケニア旅 儀式初日編

アマム

2018年03月30日 23:43

ケニアに6年ぶりに行ってきました。
6年前に沖縄に呼んだマテラ長老が危篤になり、プングワという儀式をやると宣言し、
奇跡的に回復したという知らせを受けたからだ。
40年ぶりに行われるという儀式、ドゥルマのコミュニティーがケニアの開発で崩壊の危機の中、もう最後かもしれないと行ってきた。

ナイロビからモンバサ方面へ車でガタゴト揺られること3日間、
マテラ長老が作ったドゥルマ民族の歌と踊りを教えているサルサメリへ


(photo by Shinji Kobayashi)

マテラ長老の子供達のグループが唄と踊りを披露して歓迎してくれました。
若さ溢れる躍動感ある歌と踊りのセンゲーニャ!衣装がかわいい





大きな木があるとっても気持ちのよい場所でした。リゾート地マリンディーの
近くなので観光客が見学に来たり、踊りや太鼓を習いに来たりします。






(photo by Shinji Kobayashi)

伝統的なドゥルマの暮らしを体験できるコーナーもあります。
琉球村みたいな感じ(笑)。マテラ長老はドゥルマの文化を残すために
ここを作ったのだとか。ほんとにすごいです。若い人が頑張っててうれしかった。






(photo by Shinji Kobayashi)

サイザル麻のゴザを作ってます。大西匡哉さんはここで太鼓を習ったそうです。
静かでゆったりとした時間が流れる
ドゥルマの農耕民族の暮らし
しかしケニアはどんどん開発され
この暮らしも脅かされています。



ここからまた相当なガタガタの舗装されてない道なき道を
途中車がスタックするんじゃないかというポイントも
サファリのプロのドライバーが華麗なるドライビングテクニックで回避
そして4時間埃まみれになりながら揺られてやっと聖地カヤダガムラにたどり着いた。






(photo by Shinji Kobayashi)

初めて外国人がやってくる村で、予想外にたくさんの村人たちが歓迎してくれた
村のチーフから1人1人にココナッツを渡され、歓迎の飲み物としていただいた 








こんな感じで村のみんなは今か今かとずっと待っていた。。遅れちゃってごめんなさい。
風が抜ける丘 夕暮れに心地よい風が気持ち良かった






(photo by Shinji Kobayashi)

カラフルなカンガに身をまとったご婦人たちや子供たちがたくさんやってきた
まわりになんにもないのにみんなどうやって来たんだろうというくらいに集まっていた
テント張ろうにも張れない空気なので、みんなそのまま歓迎をうけた 








(photo by Shinji Kobayashi)

珍しそうに私たちを見る。日本人なんて初めてみたに違いない(笑)
でもみんなあたたかく迎えてくれました。










カヤでできた縄文小屋は生きてるみたいで、
夜中に動き出すんじゃないかと思った(笑)
中は広くて快適。昔の家はみんなこうだったそう。








(photo by Shinji Kobayashi)

その縄文小屋から民族衣装を着た原住民が、次から次へと現れ、
それぞれの部族の踊り歌いながら、私たちとり囲むように進んでいく









360度サラウンドのドゥルマの唄と太鼓、リズム、音世界が本当に凄すぎて
まるでおとぎ話のような世界に、感激して号泣していました
この光景は一生忘れられないだろう。。本当に素晴らしかった✨








それから各部族の踊りを披露してくれた。これはカヤンバという精霊を呼ぶ楽器
躍動的な踊りとカヤンバのリズミカルな動き、ダチョウの羽の髪飾り
まるで妖精のような精霊のような








精霊を下ろすゴマザペポのおばちゃんたち
鳥のような踊りで目が行っちゃっててニコリともせず真剣を踊り続ける
突然走って薬草を持ってきて聖水にひたし、それを顔にぶっかける
手にはひょうたん子供をもっている。子供のころからの相棒のお守り










沖縄大好きなマテラ長老と感動の再会!元気になって感激
ゆーきちゃんよくきたね~~!ととても喜んでくれました。
マテラ長老のおかげでまたケニアに来れました!!
ナペンダドゥルマ!!と言ったらとても喜んでました
I love ドゥルマ








(photo by Shinji Kobayashi)

たくさんの歓迎を受け、陽も沈み村人たちは帰っていきました。
明日は満月、儀式本番。この月明りでテントを張りました。
暗くてよくわかんないままなんとか張り終え、貴重な水ちいさなたらい半分の量で
水浴びをして、村の人が美味しいケニア料理を用意してくれました。

長老が日本人の皆さん、今夜見る夢を覚えておいてください。
夢のお告げがあるかもしれません。と、言われました。
月明りでごはんを食べながら月光浴がとても気持ち良かった つづく




「プングヮというのは一体どんな儀式なのか???」 大西匡哉

マテラ長老の弟のサイディに訊ねると、3日3晩センゲーニャの祭りを行い、牛やヤギを捧げて精霊達やご先祖さまたちを喜ばせ、そして精霊達やご先祖さまたちから特別な力を授かる、マテラ師の治療のための儀式だという返事が帰ってきた。



センゲーニャとは、1900年代初頭にケニアの海岸地方に暮らす民族の間で爆発的なムーブメントを巻き起こした一つの文化だ。

それは、マジャスィという一人のハーフカーストによって生み出された。民族の違う父親と母親のそれぞれの田舎を行き来するうちに、2つの異なる文化は自然にマジャスィの中で融合され、新しい音楽が生み出された。マジャスィには霊的な力もあり、その音楽は広く人々に支持された。

センゲーニャのことを妬むグループも存在していた。そのグループとの決着を付けるために、ある競技が行なわれた。それは、40日間演奏をし続け、より多くの支持者を集めた方が勝ちと言う競技だった。その競技でセンゲーニャは圧倒的な勝利をおさめ、さらに支持者を増やしていった。




民族を超えて各地に広がったセンゲーニャを一つに繋ぐために、各地域に12人の旗持ちが選抜された。マジャスィと12人の旗持ちは連絡を取り合い、旗持ちは地域のリーダーとしてマジャスィのメッセージを人々に伝え、旱魃に備えたり、疫病の対策をしたりしていた。そのメッセージは歌となって祭りや儀式の場で歌われ、人々に伝えられていた。

こうしてセンゲーニャは、音楽と信仰と地域社会とが一体となって社会構造の一端を担うほどの現象となり、黄金時代を築いた。
だが、時は流れてマジャスィも亡くなり、そのムーブメントも徐々に勢力を弱めていった。
マテラ師の父親は、そのセンゲーニャの旗持ちを受け継いだ者の1人だった。



マテラ師が生まれたのはミリティーニという、ケニアの首都ナイロビと第2の都市モンバサを結ぶ主要道路に面した小さな村だ。


古い家族写真。左端がマテラ師、中央立っているのがサイディ、中央地面座りがマサイ爺

お父さんであるマサイ爺(初代マサイの孫にあたる)はセンゲーニャの12の旗持ちの一人で、伝統継承者として地域をまとめるリーダーだった。僕が初めてミリティーニに来た時、病床でねたきりのマサイ爺に一度だけご挨拶したことがある。マサイ爺は弱々しく僕の手を握り、「体が痛い痛い」と言った。それから間もなくマサイ爺は亡くなり、7日間に及ぶ弔いのセンゲーニャの儀式が盛大に行なわれたのを記憶している。
息を引き取る直前、マサイ爺はマテラ師に見えない何かを手渡し、「家族や子供たち、孫たちの事をたのむ」と言い残して行きを引き取った。それは2004年のことだ。


2004年にマサイ爺が亡くなったあと、ミリティーニは旗持ち不在のまま今に至っていた。

旗持ちというのは、なりたくてなれるものではないそうだ。マサイ爺が亡くなったらすぐに他の誰かが就任できるものではなく、旗そのものに選ばれた者が旗持ちになるのだ。そしてほかの12の旗持ちすべてに認められて、初めて正式に就任できるのだ。
旗に選ばれた者は病気になる。その病いは西洋医学では治せず、精霊や先祖から特別な力を授かるプングヮの儀式で治療することが出来る。



(photo by Shinji Kobayashi)

墓を掘り起こされ、目覚めてしまったマサイ爺の魂がマテラを旗持ちに選び、病気にさせているのだという。
マテラは信頼しているシャーマンに診てもらい、あることに気がついた。
マテラは完全に道を踏み外していた。さまざまな問題に翻弄され、先祖や精霊たちに繋がる伝統の道から大きく外れた道を歩んでしまっていたのだ。
その道を再び本来の道に戻すためにも、プングヮが必要だとマテラは思った。

力を授かり、旗持ちに就任する時が来たのだ。










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