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2009年09月01日
ドリスのお父さんの死
皆さん、こんにちは。
早川千晶さんからのお知らせです。
とても悲しいことがありました。

マゴソ卒業生クラブの一員であるドリスちゃん(15歳)が、今セカンダリースクールの1年生で、学校では寮生活をしているんですが、夏休みになったのでキベラに帰ってきました。
そうしたら、ドリスの田舎から伝言が届き、田舎に帰ってくるようにとのメッセージでした。
ドリスは、お母さんはすでに死亡しており、お父さんはいるのだけれどとても貧しく、ドリスが小学生のときに遠縁の親戚など転々とさせられ、子守として働かされるために学校をやめさせられて連れて行かれ、子守をさせられていたところからマゴソスクールにSOSを送り、逃げてきて、それ以来ずっとマゴソの子どもとして学校内で生活してきた女の子です。
そんな状況下でも学校に行きたいという夢を捨てず、強い意志で逃げてきたので、学校でも給食から掃除から何から何までものすごくよく働く子です。とてもがんばって勉強をして昨年受験、そして今年からセカンダリーに入学したのでした。
それで、そのドリスに、田舎に帰ってきなさいという伝言が、村から届いていたので、みんなとても心配しました。
いったい何のために帰れと言っているのか、もしかして、村に到着したとたんに捕まえられてまた子守に連れて行かれるのか、もしくは、すでにう結婚先が用意されていて、婚資を受け取った親戚に連れて行かれるのか、それとも・・・・ と、いろいろと想像をめぐらせて、みんなが心配しました。
ドリス本人は、怖がりながらも、親戚からの呼び出しだから行かねばならぬと言って、本人の意志で行きたいと言いました。
なので、マゴソの先生たちやリリアンが、田舎に着いてもしも結婚先や子守先が用意されていて連れて行かれそうになったら、そのまま反論せずに落ち着いて、普通の顔をしておき、水汲みに言ってきますと言ってそのまま逃げて一番近くにある警察署に行って保護を求めなさい、と指導し、ナイロビまで逃げて帰ってこれるのに十分な交通費を渡して、田舎の村行きのバスに乗せました。
それで昨日、村に到着したのですが、到着してからすぐに、実はドリスのお父さんが2ヶ月前に亡くなり、すでに埋葬されたあとだったということがわかりました。
それをドリスに知らせるために、呼び出しが来たようでした。
ドリスのために何もすることができない、とても貧しい農民だったお父さんでしたが、ドリスはお父さんのことが好きでした。
自分の娘が小学校をやめさせられて子守に行かされても何も助けてあげることができないほど、貧しいお父さんだったのですが、ドリスはそのお父さんのことを責めたりうらんだりするようなことは一言も言ったことがありません。
ドリスがナイロビに電話してきて、お父さんがすでに埋葬されていたという報告をしてきました。
ドリスはまたすぐにキベラに戻ってきて、あと10日後にはまたセカンダリースクールに戻ります。
たとえ何もしてくれないお父さんであっても、会えなくても、生きているというのと、もういないというのとでは、とても大きな違いがあります。
これでドリスにも、ついに誰もいなくなってしまいました。
でも、リリアンというママと、マゴソファミリーのたくさんの兄弟姉妹たちがいますから、ひとりぼっちではありません。
しかし、これほどまでの貧しさ、いったいこの世の中はなんなんだと、いつも思わずにはいられません。
私が今まで不思議に思ってきたことは、こういうドリスのような境遇の子はマゴソには信じられないほどたくさんいるのですが、そういう子どもたちの多くが、そうやって自分を助けてくれない父親に対して、不平不満や恨みつらみなど言うことがほとんどと言っていいほどないということです。
今まで見てきたケースの中で、母親もいろんな人がいますが、母親は、たとえどんなに貧しくても、自分が産んだ子どもをどんなことをしてでも守ろうとする傾向があり、でもその母親を失った子どもは、子守や牛の世話や畑仕事など、労働をさせられたり、放置されたり、継母に虐待を受けたりなど、そういうケースに多く接してきました。
そして、父親は、というと、かなり、あきらめモードだったり、もしくは無視して放置していたり、無関心だったりというケースが多く、父親がいるのに、孤児同然だという状況が多々あります。
小さな子どもたちはみんなけなげで、ボロボロになっていても親を責めるような言葉を発する子はあまりいなくて、それを私は今までなぜなのだろうかと自分で納得できずにいました。
(これが、その子どもが成長してきて大人になってくると、変化もしていきますが)
あまりにも理不尽な状況を、子どもたちはかなり淡々と語り、それを聞いていると、なぜ!なぜ!と、私のほうが怒りや悲しみでグルグルになってしまいそうなことが何度もありました。
でもそれが、こういうケースにたくさんたくさん接していくうちに、私の感情もだんだん変わってきました。
セカンダリーに進んだマゴソOBOGクラブの面々は、もっと詳しく自分のことを語れるようになってきて、彼ら・彼女らに私はいつもとても教えられています。
「仕方がなかったんだ。ただほんとうに、どうしようもなく、仕方なかったんだ。」と、彼らはそんなふうに言って、責めることや恨みの言葉を言いません。
そして、信じられないほどの、愛情を示すのです。
親をかばおうとするし、ときには弁護しようとすらします。
かばうためのウソをつく子もいます。
これほどまでの、どうしようもないほどの状況に追い込んでしまうほどの貧しさが問題なのだと、思うしかありません。
こういうことが日常茶飯事に起こるので、あまりにも当たり前の「よくある話のひとつ」として通り過ぎていってしまいます。
ドリスは泣きましたが、また涙をぬぐって学校に戻り、そうして彼女の人生の時間はまた進んでいくでしょう。
空き地で出会って、「僕は他には何もいらないから、学校に行きたい」と言った浮浪児だったトニー。
トニーも今年からセカンダリーに入りましたが、実は、数年前に、彼とリリアンとマサヤと私とで、トニーの母親(生母)を探しに行ったのです。村を探して回りました。そのときは見つからなかった。母親は見つからなかったかわりに、絶句するほどの貧しい状況、どうしようもない状況を知りました。
その数年後、昨年のことですが、母親が見つかったのです。私が村に残していった伝言が、まわりまわって彼女のもとに届き、そして苦労をして私を見つけてくれました。そのときには母親は乞食のような状態で、話せばきりがないほどの理不尽につぐ理不尽な苦労の続く人生。
でもとても美しい目と、美しい顔をした、だけど貧しさでガリガリに痩せた彼女に会いました。
昨年、受験の前にトニーが、折り入って私に話があると言ってきて、何を言うかと思いきや、自分の貧しい母親と、自分が浮浪児になったあと母親が産んだ自分とは父が違う何人かの小さな妹と弟の生活を、自分が助けたい、そればかり考えていると思いつめた顔で言ってくるのでした。
それを聞いて、胸をしめつけられるようでした。
自分が路上の浮浪児になったことも、そこでどんな想いをしてきたかも、それはみんな仕方がなかったのだとトニーは割り切っているのか、彼はその経験を今ではなんでも語り、歌を作って歌い、他の子たちを励まし、何ら傷にはなっていないように見える。そのうえ、助けたいと、そのことを考えて夜も眠れないというわけです。
そのときは、受験を目前にしたときで、私は、あなたはとにかくがんばって今自分が目の前にしている受験をがんばり、そしてセカンダリーに進学してがんばって勉強して、良い仕事につき、そうしたら望むだけお母さんを助けてあげることができるから、気持ちを集中させてがんばりなさいと言いました。
そして、お母さんのことは心配しないでいいからと言って、お母さんの生活を少しでも助けることを約束しました。
(それからときどき、お母さんと電話で連絡とりあったり、きついときにはわずかな助けを送ったりしています。)
これはいったい誰が悪いのか、何が悪くてこうなったのか、さっぱりわからない、誰も責めることができない、誰もうらむことができない、ただそんな極度の貧困の状況がまるで当たり前のようにそこら中に充満しています。
そんなことを、ぐるぐると考えつつ、いろんなことが次々と起こります。
私の親しい友人、やはり孤児でとても不遇の人生をこれまで過ごしてきたけれどもとても心の優しい、20代の女の子がいます。彼女の場合は、物心がついたときには下町の孤児院にいた、赤ん坊のときに捨て子で見つけられていた、だから自分が何族出身なのかも、自分の母親と父親が誰なのかも知りません。自分の本当の年は何歳なのかも、誕生日も、どこで生まれたのかも、どのような状況で捨てられたのかも、何も知りません。
ナイロビの下町の、貧しいエリアで、あるイスラム教の女性が、自分の家に孤児の子どもたちを集めて育てていました。彼女は、物心ついたらそこにいる自分がいたというわけ。
そのママが、彼女が小学2年生のときに病気で死んでしまいました。
そのとき50人くらいいたという孤児の子どもたちはみんなちりじりばらばらになり、彼女も転々として、言葉で語りつくせないほどの不遇の人生を送ってきました。
彼女は、弁護士になりたいという夢を持っていて、いま、がんばって勉強しています。勉強すること以外に、彼女は好きなことがありません。いつもひたすら勉強しています。私は今、その彼女の生活と学費をほんの少しの手助けですが助けています。
その彼女から、ふっと、夜中に、メッセージが届きます。
この世の中で私はひとり。たったひとりだという想いにとらわれると、恐怖で、悲しみでいっぱいになり、消えてなくなってしまいそうな恐ろしさにおそわれる。でもそばにいてくれてありがとう。こんなメールは迷惑?
と書いてある。
私は返事をして、大丈夫だよ。大好きだからね。と書く。
安心して、彼女は眠る。という具合。
私が最近読んだ本、暴動のあとに2008年に出版された、Peter M.Kuguru の書いた「Trailblazer - Breaking through in Kenya」という本があり(英語です)、
これがとても面白くて、夢中になってあっという間に読みました。
1945年生まれの著者が、これまでの人生をすべて語っている自伝。
植民地時代のケニア、そしてマウマウ戦争(独立闘争)がはじまってからの状況を、少年だった彼の目を通して語っています。それからあと、1963年に独立したケニア。高校生、大学生になる彼の目で見た60年代のケニア。ジョモケニヤッタ初代大統領の時代、その後のモイ大統領の時代、そして現代のキバキ政権のケニアまで。
そして起る大暴動。混乱の末の希望。
著者独特のユーモラスな語り口で、とてもイキイキと語っていきます。
これを読んでいてつくづく思いました。今現在のケニアの現状がなぜここまでになっているかを理解することは、歴史をひもとかなければ絶対にわからないと、それは今までもスタディツアーで必ずそう話して、そして簡単なケニアの歴史のレクチャーをするようにしているのですが、これをまたつくづく実感しました。
ドリスちゃんや、トニー君や、エミテワちゃんや、そんなひとりひとりの人生の背景を理解するには、ケニアや世界の歴史を知らなければ理解できない。なぜこういうことが起るのかともんもんとするだけじゃなく、やっぱり、私たちは自覚してなおしていかねばならないですよね、人間が犯してきた罪や間違った歩みなど。
上記の本の中で、やはりあらためて驚愕したのは、植民地時代の政策や、その後の独立闘争時に、彼らがいかに痛めつけられて、どれほどまでの残酷な経験をしてきたのかということです。
著者はキクユ族出身者ですが、だから彼の家族は独立闘争で大きな被害を受け、他の多くのキクユ族の一家と同じように、住まいを奪われ土地を奪われ命をおびやかされ、強制収用キャンプに入れられ、命からがらの状態で何とか生き延びていきます。
そんな想像を絶するような状況下でも、少年ののびやかな精神で成長していくわけなのですが、それにしても、あまりにもひどい、搾取や蹂躙の歴史。
その後、フリーダムファイターたちが中心になった初代ジョモケニヤッタ政権が樹立されるが、すぐにはじまる汚職や腐敗構造。部族主義。
狂ったようにやりたい放題、取りたい放題、搾取し放題していく官僚たち。貧富の格差が拡大していく。
2007-2008年のあの大暴動の背景には、あれほどまでの状況になってしまった背景には、植民地時代やマウマウ(独立闘争)時代に彼らが受けてきたあまりにも非人道的な扱いとそのトラウマが確かにあると感じた。
殺戮や蹂躙や奪い合いの歴史や、それで受けた魂の傷による悪の連鎖は、もういい加減とめなければ、もうこれ以上どこにも向かえないですよね本当に。
ドリスの父の死を機に、いろいろなことが頭をぐるぐると回っている。
とりとめもない日記になりどうもすみません。
今週は、来週末のマゴソ絵画コンテストに向けて、アートクラブの面々が張り切ってがんばっております。
リーダーのザブロン君。そして彼の120人のメンバーたち。
みんな、ぞくぞくと絵を書いています。
表現していくこと、伝えていくことできっと何かが変わっていくと信じて、がんばるのだ。絵を描くこと、文章を書くこと、歌を歌うこと。
自分の中にあるものを吐き出していくこと。
ではでは、皆さんも良い週末をお過ごしください!
早川千晶さんからのお知らせです。
とても悲しいことがありました。

マゴソ卒業生クラブの一員であるドリスちゃん(15歳)が、今セカンダリースクールの1年生で、学校では寮生活をしているんですが、夏休みになったのでキベラに帰ってきました。
そうしたら、ドリスの田舎から伝言が届き、田舎に帰ってくるようにとのメッセージでした。
ドリスは、お母さんはすでに死亡しており、お父さんはいるのだけれどとても貧しく、ドリスが小学生のときに遠縁の親戚など転々とさせられ、子守として働かされるために学校をやめさせられて連れて行かれ、子守をさせられていたところからマゴソスクールにSOSを送り、逃げてきて、それ以来ずっとマゴソの子どもとして学校内で生活してきた女の子です。
そんな状況下でも学校に行きたいという夢を捨てず、強い意志で逃げてきたので、学校でも給食から掃除から何から何までものすごくよく働く子です。とてもがんばって勉強をして昨年受験、そして今年からセカンダリーに入学したのでした。
それで、そのドリスに、田舎に帰ってきなさいという伝言が、村から届いていたので、みんなとても心配しました。
いったい何のために帰れと言っているのか、もしかして、村に到着したとたんに捕まえられてまた子守に連れて行かれるのか、もしくは、すでにう結婚先が用意されていて、婚資を受け取った親戚に連れて行かれるのか、それとも・・・・ と、いろいろと想像をめぐらせて、みんなが心配しました。
ドリス本人は、怖がりながらも、親戚からの呼び出しだから行かねばならぬと言って、本人の意志で行きたいと言いました。
なので、マゴソの先生たちやリリアンが、田舎に着いてもしも結婚先や子守先が用意されていて連れて行かれそうになったら、そのまま反論せずに落ち着いて、普通の顔をしておき、水汲みに言ってきますと言ってそのまま逃げて一番近くにある警察署に行って保護を求めなさい、と指導し、ナイロビまで逃げて帰ってこれるのに十分な交通費を渡して、田舎の村行きのバスに乗せました。
それで昨日、村に到着したのですが、到着してからすぐに、実はドリスのお父さんが2ヶ月前に亡くなり、すでに埋葬されたあとだったということがわかりました。
それをドリスに知らせるために、呼び出しが来たようでした。
ドリスのために何もすることができない、とても貧しい農民だったお父さんでしたが、ドリスはお父さんのことが好きでした。
自分の娘が小学校をやめさせられて子守に行かされても何も助けてあげることができないほど、貧しいお父さんだったのですが、ドリスはそのお父さんのことを責めたりうらんだりするようなことは一言も言ったことがありません。
ドリスがナイロビに電話してきて、お父さんがすでに埋葬されていたという報告をしてきました。
ドリスはまたすぐにキベラに戻ってきて、あと10日後にはまたセカンダリースクールに戻ります。
たとえ何もしてくれないお父さんであっても、会えなくても、生きているというのと、もういないというのとでは、とても大きな違いがあります。
これでドリスにも、ついに誰もいなくなってしまいました。
でも、リリアンというママと、マゴソファミリーのたくさんの兄弟姉妹たちがいますから、ひとりぼっちではありません。
しかし、これほどまでの貧しさ、いったいこの世の中はなんなんだと、いつも思わずにはいられません。
私が今まで不思議に思ってきたことは、こういうドリスのような境遇の子はマゴソには信じられないほどたくさんいるのですが、そういう子どもたちの多くが、そうやって自分を助けてくれない父親に対して、不平不満や恨みつらみなど言うことがほとんどと言っていいほどないということです。
今まで見てきたケースの中で、母親もいろんな人がいますが、母親は、たとえどんなに貧しくても、自分が産んだ子どもをどんなことをしてでも守ろうとする傾向があり、でもその母親を失った子どもは、子守や牛の世話や畑仕事など、労働をさせられたり、放置されたり、継母に虐待を受けたりなど、そういうケースに多く接してきました。
そして、父親は、というと、かなり、あきらめモードだったり、もしくは無視して放置していたり、無関心だったりというケースが多く、父親がいるのに、孤児同然だという状況が多々あります。
小さな子どもたちはみんなけなげで、ボロボロになっていても親を責めるような言葉を発する子はあまりいなくて、それを私は今までなぜなのだろうかと自分で納得できずにいました。
(これが、その子どもが成長してきて大人になってくると、変化もしていきますが)
あまりにも理不尽な状況を、子どもたちはかなり淡々と語り、それを聞いていると、なぜ!なぜ!と、私のほうが怒りや悲しみでグルグルになってしまいそうなことが何度もありました。
でもそれが、こういうケースにたくさんたくさん接していくうちに、私の感情もだんだん変わってきました。
セカンダリーに進んだマゴソOBOGクラブの面々は、もっと詳しく自分のことを語れるようになってきて、彼ら・彼女らに私はいつもとても教えられています。
「仕方がなかったんだ。ただほんとうに、どうしようもなく、仕方なかったんだ。」と、彼らはそんなふうに言って、責めることや恨みの言葉を言いません。
そして、信じられないほどの、愛情を示すのです。
親をかばおうとするし、ときには弁護しようとすらします。
かばうためのウソをつく子もいます。
これほどまでの、どうしようもないほどの状況に追い込んでしまうほどの貧しさが問題なのだと、思うしかありません。
こういうことが日常茶飯事に起こるので、あまりにも当たり前の「よくある話のひとつ」として通り過ぎていってしまいます。
ドリスは泣きましたが、また涙をぬぐって学校に戻り、そうして彼女の人生の時間はまた進んでいくでしょう。
空き地で出会って、「僕は他には何もいらないから、学校に行きたい」と言った浮浪児だったトニー。
トニーも今年からセカンダリーに入りましたが、実は、数年前に、彼とリリアンとマサヤと私とで、トニーの母親(生母)を探しに行ったのです。村を探して回りました。そのときは見つからなかった。母親は見つからなかったかわりに、絶句するほどの貧しい状況、どうしようもない状況を知りました。
その数年後、昨年のことですが、母親が見つかったのです。私が村に残していった伝言が、まわりまわって彼女のもとに届き、そして苦労をして私を見つけてくれました。そのときには母親は乞食のような状態で、話せばきりがないほどの理不尽につぐ理不尽な苦労の続く人生。
でもとても美しい目と、美しい顔をした、だけど貧しさでガリガリに痩せた彼女に会いました。
昨年、受験の前にトニーが、折り入って私に話があると言ってきて、何を言うかと思いきや、自分の貧しい母親と、自分が浮浪児になったあと母親が産んだ自分とは父が違う何人かの小さな妹と弟の生活を、自分が助けたい、そればかり考えていると思いつめた顔で言ってくるのでした。
それを聞いて、胸をしめつけられるようでした。
自分が路上の浮浪児になったことも、そこでどんな想いをしてきたかも、それはみんな仕方がなかったのだとトニーは割り切っているのか、彼はその経験を今ではなんでも語り、歌を作って歌い、他の子たちを励まし、何ら傷にはなっていないように見える。そのうえ、助けたいと、そのことを考えて夜も眠れないというわけです。
そのときは、受験を目前にしたときで、私は、あなたはとにかくがんばって今自分が目の前にしている受験をがんばり、そしてセカンダリーに進学してがんばって勉強して、良い仕事につき、そうしたら望むだけお母さんを助けてあげることができるから、気持ちを集中させてがんばりなさいと言いました。
そして、お母さんのことは心配しないでいいからと言って、お母さんの生活を少しでも助けることを約束しました。
(それからときどき、お母さんと電話で連絡とりあったり、きついときにはわずかな助けを送ったりしています。)
これはいったい誰が悪いのか、何が悪くてこうなったのか、さっぱりわからない、誰も責めることができない、誰もうらむことができない、ただそんな極度の貧困の状況がまるで当たり前のようにそこら中に充満しています。
そんなことを、ぐるぐると考えつつ、いろんなことが次々と起こります。
私の親しい友人、やはり孤児でとても不遇の人生をこれまで過ごしてきたけれどもとても心の優しい、20代の女の子がいます。彼女の場合は、物心がついたときには下町の孤児院にいた、赤ん坊のときに捨て子で見つけられていた、だから自分が何族出身なのかも、自分の母親と父親が誰なのかも知りません。自分の本当の年は何歳なのかも、誕生日も、どこで生まれたのかも、どのような状況で捨てられたのかも、何も知りません。
ナイロビの下町の、貧しいエリアで、あるイスラム教の女性が、自分の家に孤児の子どもたちを集めて育てていました。彼女は、物心ついたらそこにいる自分がいたというわけ。
そのママが、彼女が小学2年生のときに病気で死んでしまいました。
そのとき50人くらいいたという孤児の子どもたちはみんなちりじりばらばらになり、彼女も転々として、言葉で語りつくせないほどの不遇の人生を送ってきました。
彼女は、弁護士になりたいという夢を持っていて、いま、がんばって勉強しています。勉強すること以外に、彼女は好きなことがありません。いつもひたすら勉強しています。私は今、その彼女の生活と学費をほんの少しの手助けですが助けています。
その彼女から、ふっと、夜中に、メッセージが届きます。
この世の中で私はひとり。たったひとりだという想いにとらわれると、恐怖で、悲しみでいっぱいになり、消えてなくなってしまいそうな恐ろしさにおそわれる。でもそばにいてくれてありがとう。こんなメールは迷惑?
と書いてある。
私は返事をして、大丈夫だよ。大好きだからね。と書く。
安心して、彼女は眠る。という具合。
私が最近読んだ本、暴動のあとに2008年に出版された、Peter M.Kuguru の書いた「Trailblazer - Breaking through in Kenya」という本があり(英語です)、
これがとても面白くて、夢中になってあっという間に読みました。
1945年生まれの著者が、これまでの人生をすべて語っている自伝。
植民地時代のケニア、そしてマウマウ戦争(独立闘争)がはじまってからの状況を、少年だった彼の目を通して語っています。それからあと、1963年に独立したケニア。高校生、大学生になる彼の目で見た60年代のケニア。ジョモケニヤッタ初代大統領の時代、その後のモイ大統領の時代、そして現代のキバキ政権のケニアまで。
そして起る大暴動。混乱の末の希望。
著者独特のユーモラスな語り口で、とてもイキイキと語っていきます。
これを読んでいてつくづく思いました。今現在のケニアの現状がなぜここまでになっているかを理解することは、歴史をひもとかなければ絶対にわからないと、それは今までもスタディツアーで必ずそう話して、そして簡単なケニアの歴史のレクチャーをするようにしているのですが、これをまたつくづく実感しました。
ドリスちゃんや、トニー君や、エミテワちゃんや、そんなひとりひとりの人生の背景を理解するには、ケニアや世界の歴史を知らなければ理解できない。なぜこういうことが起るのかともんもんとするだけじゃなく、やっぱり、私たちは自覚してなおしていかねばならないですよね、人間が犯してきた罪や間違った歩みなど。
上記の本の中で、やはりあらためて驚愕したのは、植民地時代の政策や、その後の独立闘争時に、彼らがいかに痛めつけられて、どれほどまでの残酷な経験をしてきたのかということです。
著者はキクユ族出身者ですが、だから彼の家族は独立闘争で大きな被害を受け、他の多くのキクユ族の一家と同じように、住まいを奪われ土地を奪われ命をおびやかされ、強制収用キャンプに入れられ、命からがらの状態で何とか生き延びていきます。
そんな想像を絶するような状況下でも、少年ののびやかな精神で成長していくわけなのですが、それにしても、あまりにもひどい、搾取や蹂躙の歴史。
その後、フリーダムファイターたちが中心になった初代ジョモケニヤッタ政権が樹立されるが、すぐにはじまる汚職や腐敗構造。部族主義。
狂ったようにやりたい放題、取りたい放題、搾取し放題していく官僚たち。貧富の格差が拡大していく。
2007-2008年のあの大暴動の背景には、あれほどまでの状況になってしまった背景には、植民地時代やマウマウ(独立闘争)時代に彼らが受けてきたあまりにも非人道的な扱いとそのトラウマが確かにあると感じた。
殺戮や蹂躙や奪い合いの歴史や、それで受けた魂の傷による悪の連鎖は、もういい加減とめなければ、もうこれ以上どこにも向かえないですよね本当に。
ドリスの父の死を機に、いろいろなことが頭をぐるぐると回っている。
とりとめもない日記になりどうもすみません。
今週は、来週末のマゴソ絵画コンテストに向けて、アートクラブの面々が張り切ってがんばっております。
リーダーのザブロン君。そして彼の120人のメンバーたち。
みんな、ぞくぞくと絵を書いています。
表現していくこと、伝えていくことできっと何かが変わっていくと信じて、がんばるのだ。絵を描くこと、文章を書くこと、歌を歌うこと。
自分の中にあるものを吐き出していくこと。
ではでは、皆さんも良い週末をお過ごしください!
Posted by アマム at 19:42│Comments(0)
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