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マゴソTV(マゴソスクール映像) https://www.youtube.com/watch?v=Li-3eeJUDOc&index=1&list=PLC4821796126BE39E/

1食10円でごはんが食べられます。↑マゴソスクール支援の募金お願いしま~す。
募金先はhttp://africaze.ti-da.net/c136261.html

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2011年02月19日

カテンベからの手紙 『世界中の僕の友達へ』

皆様、こんにちは。

皆様から多大なご支援をいただき、2006年10月26日に腎臓移植手術を受けて一命を取りとめたミリティーニ村出身のカテンベ君が、今年、セカンダリースクールに進学しました。 手術後、おかげさまで体調はとても順調で、徐々に体力もついていき、遅れていた勉強を取り戻すために彼は必死で勉強をしてきました。




最近のカテンベは、本当に(以前にも増して)真剣です。
やはり、成長すると共に、自分が今こうして生きていられることに対しての様々な自覚や将来への心構えが出てきたのだと思います。

セカンダリースクールに入学して、そんな気持ちや責任感をあらたにしているようです。
いつも彼が言っているのは、自分ひとりの命ではないのだということです。
もしも自分ひとりだったら、2006年に彼はすでにこの世を去っていたことでしょう。
今こうして生きていられることへの感謝と、応援してくださっているたくさんの方々への感謝、そして、未来に向けての目標や夢や責任感を、最近の彼からはますますひしひしと感じています。

そのカテンベが、セカンダリースクール入学を期に、お世話になった皆様へ手紙を書きたいと言いました。

それをカテンベの兄である大西匡哉君が翻訳し、大西匡哉君自身の文章もつけて、彼のMIXIの日記にUPしました。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1676231568&owner_id=3177593



これからカテンベが本当の意味で、自分自身の力で生きることができるようになり、そしてさらに、困難な状況にある多くの子どもたちを助けることができるようになるまでには、まだまだ時間がかかり、カテンベ自身の努力も、彼の教育や医療を支えるための支援も必要となるのですが、こうして支援していただいているという事実を、今年20歳になるカテンベが、いかに重要なこととしてとらえていて、その自覚をあらたにしているかということが、この手紙から伝わってきます。

どうか皆さん、カテンベが一人前になれるときまで、引き続き応援していっていただけると、非常にありがたく思います。 私自身も、カテンベの一支援者として、そして人生の深い部分でつながっている友人として、カテンベの将来をとても楽しみに、これからも彼の成長を見つめていきたいと思います。

これまでの長い年月、ずっと寄り添って応援を続けてくださっている皆様に、心からの感謝をお伝えしたいです。
どんな状況であっても一生懸命生きるということ、そして、どんなことがあっても生きることをあきらめないということ、本当に小さくてボロボロの体をしていたカテンベが、身をもって教えてくれました。
生と死のギリギリのところでの闘いの最中、体はボロボロだった彼が、いかに目を輝かせていたか、そして決してあきらめなかった強い意志を、私は一生、自分の魂にもしっかりと刻み付けていきたいと思います。

心からの感謝と共に

早川千晶

●カテンベの腎臓移植手術直後までの闘病の記録
「カテンベ救済の呼びかけ」ブログ
http://keepmusic.exblog.jp/

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↓大西匡哉からのメッセージです。


今年高校生になるカテンベから手紙を受け取りました。
宛先は「世界中の僕の友達へ」です。

カテンベは、僕が太鼓の修行をしていたミリティーニ村出身の男の子で、太鼓の師匠であるマテラ長老の甥っ子です。

彼とは様々なドラマを一緒にくぐり抜けて来ました。僕の弟みたいな存在です。
彼は、『生きる事は輝く事』というシンプルで力強いメッセージを、身を持って教えてくれました。
普段は口が達者で、ユーモアたっぷりなカテンベですが、近頃ずいぶん大人っぽく、そしてたくましくなったなぁと感じます。 初めて会った時、体が枯れ木のようにやせ細っていたのが嘘のようです。

手紙を受け取ったのは、彼の高校入学の日でした。新しい制服に身を包んだカテンベが、僕には眩しく見えました。

そんな彼からの手紙です。ぜひ読んでください。


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Date:29th-January-2011
From Hamisi Juma Katembe


To All My Friends in The World

I am known as Juma Hamisi Katembe. I was born in the year 1991.
I started experiencing the kidney problem at the age of three. It was not clear what it was but I really suffered a lot.
I could be troubled by Pneumonia or Malaria and other infections for my immunity was low.

When I was in class five, twelve years, it become worse. The distance from our home to school was further therefore I could not walk.
My legs were swelling as my hair was turning brownish. in the night, I could not see clearly. I could not engage in any activity for I was not able to run neither was I strong enough.

Sometimes went I left home for school, I could be seen sleeping on the way for I was exhausted.
This made me to give up on schooling. I was at home for three bad years.
"God was with me" They came friends from Japan and made up their minds on assisting me.
I did a kidney transplant where my beloved mother gave me the kidney.
This money for the operation was donated by you my true friends in Japan.

You did not stop there but took me to school where I realised my potential and dreams for life.
I was interested in Music, Drama & Journalism club. I even took my school to the national levels in music while perfect news caster in Swahili & English. Time was little as I joined class eight for my final year in primary. I did my K.C.P.E exams and managed to get a B+.
Meaning: English ; 76 A Kiswahili ; 80 A Science ; 70 B+ Mathematic ; 54 C Social study's ; 68 B . Total 348 B+

That is past.

Now I am joining high school I want to tell all of you my friends that, if you see me somewhere in future do not be shocked.
I will do Journalism, Drama, Music & Politics. This means that I have to work hard and smart at the same time in order to achieve what I want in life.
This means I will join University with an A and combine music with drama.
If I get a nice job, I should be able to buy the drugs for myself and if possible help the less fortunate in life so that they live happily.

Thanks to you in advance for what you have been doing for me and God will shower you with his blessings. Please help me more with school fees in Secondary school and University levels for I need help form you. Giving or helping is the Heart and Humanity, and not richness. Helping me give a lesson that I should also help others as per what I am going through.
Please, Please help me with my school fees for education is the Key to life

Thank you and God bless you

Your faithfully,

Hamisi Juma Katembe.

僕の名前はジュマ・ハミシ・カテンベ、1991年生まれです。
3歳のころから腎臓の具合が悪くなり始めました。腎臓の何が問題だったのかはっきりしませんでしたが、とても苦しんできました。
肺炎やマラリアなど、感染症に対する免疫力がとても低かったのです。

12歳(5年生)のとき、症状はさらに悪くなりました。学校までの道のりが遠く、歩いて行くことが困難になりました。 脚は腫れ、髪の毛は色が抜け、夜になると視力が低下して、良く見えなくなっていきました。
学校行事に参加することもできず、何をするにも力が入らなくなってしまったのです。

通学途中、疲労困憊して倒れているところを発見されることもありました。
こうして僕は学校へ行くことを諦めざるを得なかったのです。
じっと家で過ごした3年間はとても辛いものでした。
でも、神様は僕のそばにいてくれました。日本から来た友人が、力を合わせて僕をサポートしてくれることになったのです。 日本の真の友たちが、移植の手術代を寄付してくれました。そして、愛する母が腎臓をひとつ僕にさずけてくれたのです。

彼らのサポートはそれで終わりではありませんでした。
復学させてくれたおかげで、人生の将来や夢について再び自覚することができました。
学校で僕は、音楽活動、演劇活動、ジャーナリズムクラブに参加していました。
伝統音楽のコンクールでは全国大会にも出場し、
ジャーナリズムクラブでは、スワヒリ語と英語の両方でニュースキャスターも務めていました。

小学校最後の8年生に進級したとき、(今までの遅れもあり)決して十分な時間があったわけではありませんでしたが、
KCPE(ケニア統一試験)でB+の成績を収めました。
(英語76点A、スワヒリ語80点A、科学70点B+、数学54点C、社会68点B、合計348点B+)

これが今までの話です。
今年僕は高校に入学したばかりですが、みなさんが驚くくらい色々なことに意欲がわいています。
小学校でもやっていた音楽・演劇・ジャーナリズムの他に、政治学にも興味をもっています。
これらを成し遂げるためには、懸命に努力しなければなりません。
(訳者註:ケニアでは、課外活動の最も盛んなものが音楽と演劇です)
そして、Aの成績で大学に進学し、ミュージシャンや俳優を目指したいとも思っています。

将来僕が良い仕事につけたなら、自分で必要な薬を買うことができるし、
困っている人たちが幸せに暮らせるように手助けをすることもできるでしょう。
今までに僕のためにしてくださった、たくさんの援助にとても感謝しています。
皆さんに神様の祝福が降り注ぎますように、いつも心から祈っています。
そして今、再び皆さんにお願いしたいのです。高校と大学の学費のために、皆さんの力をかしていただきたいと。
これまでにいただいた支援や寄付も、決して物質的な豊かさからではなく、人間的な愛情や思いやりから生じたものだと感じています。
今後も、(学生生活で)経験していけることだろうことを通して、
僕自身がまた他の人たちに手を差し伸べてあげられるような、そんな学びの機会を与えていただきたいのです。
教育は人生の扉を開いてくれる、僕はそう信じています。
どうか、学費の支援をお願いします。

心をこめて
ジュマ・ハミシ・カテンベ

*****************************************************

2006年の始め、歩く事はおろか立ち上がる事もできなくなっていたカテンベを背負ってナイロビの医者に見てもらった時、
このまま村に返したら、カテンベの命は持ってあと2週間だろうと言われました。
カテンベは貧しい村の出身で、その地域にはカテンベの病気を治療できる病院も設備もありませんでした。

それからナイロビでの闘病生活が始まり、早川千晶さんとともに付きっきりでカテンベの治療をサポートしました。 カテンベは長年腎臓を煩っていました。腎臓は血液を浄化する臓器ですが、カテンベの腎臓はこの時全く機能しておらず、 体中の骨や細胞を蝕んでいました。

僕らの必死の呼びかけに対して、日本では仙台のNPOアマニヤアフリカの協力を得て、全国で募金活動がはじまりました。 ミュージシャンやアーティスト仲間たちは、チャリティーライブや作品の売り上げをカテンベのために寄付してくれました。
雨の中街頭に立って人々に募金を呼びかけてくれた仲間たちもいました。 生活費や学費を削って募金してくれた人もいました。フリーマーケットの売り上げを寄付し続けてくれた人もいました。
ピースボートの船の上、各地の街頭、それぞれの職場や学校、本当に多くの方々がカテンベのために心を砕いて動いてくれました。

こうしてカテンベは2006年10月26日、自分の母親から腎臓の移植手術を受け、全く新たな人生を歩み始めたのです。

体には免疫系という機能があります。体の中に侵入した異物や病原菌と戦う免疫は、 不幸にも移植した臓器を異物と見なし攻撃してしまうのです。 そのため、移植を受けた者は免疫抑制剤を飲み続けなければなりません。 免疫抑制剤は、いわば体の免疫を弱め、移植した腎臓を異物だと気づかせないようにする薬です。
マラリアなどの感染症にかかると、薬で体の抵抗力を弱めているのでとても危険です。
移植を受けた者は衛生面や健康管理にも十分気をつけなければならないのです。
また、拒絶反応の有無、血液中のカルシウムや脂質の濃度、腎臓や肝臓の機能が正常かどうかなど、 細かな検査を定期的にしなければなりません。

カテンベの手術後は、マイシャヤラハ基金を通じて17人ほどのメンバーで毎月1000円~5000円の資金を出し合って、医療費と教育費の両面をサポートしています。目標はカテンベが将来自立して、自分で自分の医療費をまかなえるようになる事です。

学校に復帰したカテンベは、始めは歩くのもやっとな感じでしたが、みるみるうちに元気になって、
階段を2段飛ばしで駆け上がれるまでになった時には本当にびっくりしました。
勉強の方も、苦手な数学や科学はついて行くのがやっとでしたが、得意のスワヒリ語はいつもトップでした。
衛生面なども考慮して、寄宿舎のあるナイロビの私立学校に入っていたのですが、
その学校でカテンベはとても活発にいろんな事に挑戦しました。
大好きなミュージッククラブでは、ソロを歌ってチームメイトたちを引っ張り、
ケニアミュージックフェスティバルの全国大会にも出場したほどです。
当初あんなに苦労していた数学でも、失敗を怖がらずにどんどん自分から手を挙げつづけ、
やがて正解できるようになって、苦手意識を克服しました。

2010年、KCPEというケニアの統一試験を受けたカテンベの成績は348点 B+という驚くべき成績でした。

ところがいい成績を取ったのも関わらず、高校探しは難航しました。
教育省が、公立の学校の生徒から優先して進学させると発表したのです。
これは私立校の生徒たちには不利な決定ではありますが、通常、村などで経済的に困難な生活状況にある公立校の生徒と、経済的に余裕のある私立校の生徒とでは、その条件に大きな差があるため、国民全体の底上げを目指しているケニア政府にとっては、公平を期すために必要な決定でした。
カテンベは、ナイロビで寄宿舎のある州立学校を目指していましたが、ナイロビでは寄宿舎のある学校は少なく、非常に競争が激しく、やっと入学が許可されたのは寄宿舎のない通いの学校でした。
ところが、カテンベの家族はモンバサ近郊のミリティー二村が住まいです。免疫抑制剤を服用しているカテンベには、感染症にかかる危険性がある場所で長期間生活することはできません。
やっとのことで入学が決まった学校は、ナイロビから2時間離れたところにあるパイオニア高校という学校です。

この学校は成績も優秀で、大学進学率も非常に高い高校です。
とても田舎にある学校ですが、校内は明るい雰囲気で、静かで落ち着いたところです。
学費は年間30万円、4年間で120万円です。更にその先には大学進学費用も必要になるでしょう。
カテンベの手紙でもわかるように、彼は意欲に満ち溢れています。
彼はもう子供ではありません。今年の6月で20歳になります。
学費の問題を彼に告げた時、彼自身が自分で手紙を書いて、皆様からのご支援をお願いさせて欲しいと言いました。
彼は人生の目標をはっきりさせています。しかもかなり大きな目標を持っています。
自分の人生設計の話をする時、彼の目はとても生き生きと輝いています。
そんな彼を見ていると、僕もワクワクしてくるのです。

みなさん、どうか彼のこれからの学費を、ご支援いただけないでしょうか。

目標は彼が自分で自分の医療費をまかなえるようになる事です。
医療費は薬代が毎月約7万円です。それ以外にも定期検診や血液検査などがあります。
これらすべてを彼が将来、自分自身でまかなっていくことができる人間になるために、今、さらなるご支援をいただくことができれば、非常にありがたく思います。

学費支援に協力してくださる方は、下記のマイシャヤラハ基金の口座にお振込お願い致します。


振込先: ゆうちょ銀行 記号10070 番号17463211 名義 マイシャヤラハキキン

なお、マイシャヤラハ基金には、複数の支援先があるので混同を防ぐため、振込後下記アドレスまでお名前と支援先(カテンベ学費支援)と金額をお知らせください。(お知らせがない場合は、自動的にマゴソスクールへの支援となります。)


大西匡哉  keep_music@hotmail.com


また、定期支援者も募集しております。
定期支援者の方々には、郵貯銀行の自動送金システムを利用して、定期的に寄付していただいています。
毎月27日に自動送金されるように支援者の方がご設定ください。
詳しくはお問い合わせください。

みなさんどうかよろしくお願い致します。

2011年2月18日

大西匡哉
  


Posted by アマム at 10:53Comments(0)カテンベ君

2011年02月13日

カテンベ、高校入学!

皆さん、こんにちは。
とっても楽しかったスタディツアーが昨日で終了しました。
私もナイロビに帰ってきたので、これから2月20日に日本に出発するまでまたいろいろ報告していきたいと思います。

1月から2月にかけて、昨年度のマゴソ&ジュンバ卒業生たちの高校進学でおおわらわでした。
マゴソのダン校長、オギラ教頭、ドナ(ソーシャルワーカー)、リリアン、私、マサヤ、アマニヤアフリカの石原輝君、と、総動員で、あっちこっち走り回って10名の進学先を決定させるのに目の回るような毎日でした。

カテンベがお世話になっていたピースジュニア学校の校長先生や先生方、京子ママにも大変お世話になりました。
みんな、子どもたちの将来がすこしでも明るいものになるように、できることすべての力を尽くしてくださいました。

なかなか決まらなくてヤキモキした最後の4名の進学先が昨日、ついに決定。
そして、超特急で昨日、今日と、最後の入学手続きをしてきました。

まずは、腎臓移植手術で皆様からご支援いただいて一命をとりとめ、その後復学することができ、とってもとってもがんばってきたカテンベが、ついに、高校生になり、ピッカピッカの新しい制服で意気揚々と高校入学した姿が、アマニヤアフリカのブログで見れますので、見てみてください。
石原輝君がブログに写真つきでUPしてくれています。

http://blog.canpan.info/amaniyaafrica/





↑アマニヤアフリカのブログの、1月31日付けです。

マゴソOBOGクラブのメンバーたち、ついに人数は45名にもなりまして、
ただいま、長男・長女たちは日本でいう高校3年生(ケニアのセカンダリー4年生)です。
この長男・長女たちは、マゴソスクールがはじまったばかりの頃、幼稚園生(Baby Class)だった一期生たちです。
昨日、仙台のアマニヤアフリカ理事長、石原お母さんがマゴソに来てくれたときに、マゴソの400名の生徒を前にして、その話をしました。
石原お母さんは、マゴソがはじまるよりも前から、(1998年から)、毎年ケニアを訪れ、私たちをサポートしてくださっているマゴソの子どもたちのビッグママです。
マゴソ幼稚園生、小学生たちにとって、セカンダリースクールに行っているマゴソOBOGクラブはあこがれのお兄さん・お姉さんたちです。
今では高校3年生になった彼らが幼稚園生だったときから、石原お母さんはずっと見てくれています。
マゴソの子どもたち400名を前にして、みんなが知ってるオビリ君やナンシーやインバラが幼稚園のときから石原お母さんはずっと毎年来てくれてるんだよと話したら、みんなからどよめきと歓声と拍手が起こりました。
ほんとにあらためて考えてみると、つくづく、すごいことだなと思うんです。
石原お母さんは今年、68歳になるそうです。(もうすぐ誕生日。)

子どもたちも成長していくし、世の中もどんどん動いていきます。
毎日毎日のいろいろなことを目の前にして必死の毎日だけれども、ふっと立ち止まってみて見渡してみると、毎日がんばることの積み重ねや、時間の積み重ねや、出会いの積み重ねで、こんなにステキなことになっているということに気づきます。

私は今、一番元気をもらえて一番励まされるのは、この高校生たち、マゴソOBOGクラブの面々のエネルギーに触れるときです。
たくさんの夢を持って、彼らは未来への道を力強く歩んでいます。

マゴソ&ジュンバを卒業して、マゴソOBOGクラブのメンバーになるとき、私はいつも、こういうふうに彼らに話します。
昨日までは君たちは子どもだったけど、今日からはもう子どもじゃない。
だから私はもう子ども扱いはしない。
子どもは大人からの保護が必要だけど、子どもが終わって大人になっていったら、こんどは、自分が誰かを助けられる人になるっていうこと。
もう子どもじゃない君たちと、私は一生ずっとお友達でいたいし、家族でいたい。だから、お友達として私のことを助けてもらいたいし、反対に、君たちに助けが必要なときは私も助けたいと思うから、なんでも話し合っていこう。
そして、どうしたらもっとよくなっていくか、アイディアを出し合っていきたいし、みんなで一緒に作っていきたい。
頼りにしているので、私のことを助けてください。

と、こういう話をします。
すると、彼らは顔が変わって、目が変わって、すごく変わっていきます。
そして、頼もしい先輩たち(オビリやトニーたち)にとっても触発されて、影響されて、1学期が終わってキベラに帰省してくると、まるで別人のようにしっかりしてきます。

マゴソOBOGクラブはとってもたくさんの夢を語って、みんなで励ましあって成長していく高校生チームです。
(すでに社会人になった子も2名います。)
私の自慢のチームです。
ぜひ皆さん、会いに来てください!
8月のスタツアと、11月末~12月のスタツアは、彼らとの密な交流がプログラムの中に入っています。
(学校がお休みのときでないと、彼らに会えません。普段はそれぞれの学校で寄宿舎生活なので。)

ではまた他のこともぼちぼち報告していきたいと思います。
動きがいっぱいあって、とっても活気がある最近のマゴソです。
ちなみに、最近のニュースとしては、マゴソにジャーナリズムクラブができました!
前々から、ジャーナリストになりたいと夢を持つ子が出てきていました。
なぜかというと、きっと、ホンモノのジャーナリストの皆さんがマゴソに来てくれて、とても愛情深いいろいろな取材を密にしていってくださったことが刺激になったのだと思います。
今年から、マゴソのジャーナリズムクラブでは、朝礼のときに、キベラの最新ニュースをメンバーたちが発表したり、マゴソ新聞とマゴソマガジンを作ろうとしています。

アートと音楽の活動のほうも、皆様のおかげでますます活発になってきました。

元気いっぱいのマゴソの近況でした。これからもよろしくお願いします。

早川千晶
  


Posted by アマム at 21:39Comments(1)カテンベ君

2010年02月18日

カテンベ君の近況報告です

ケニアの早川千晶さんよりメッセージです

皆さん、こんにちは! うわーっ いつの間にか2月も下旬・・・ 時間がたつのが早いですね!
こちら、マゴソもジュンバもみんな元気にがんばってます。 なかなか報告が書けなくてすみません。

2010年は最初から活気に満ちてます。 まずは年末からはじまったマゴソスクール大改装。
どんどん大変身しています。楽しみにしていてください。 子どもたちの数もますます増えています。
そして2009年度の受験生たち、無事、セカンダリースクールに進学しました。
このへんの報告も、次に書きたいと思います。

今日はまずは、カテンベの近況報告からお知らせします。

2006年10月に、腎臓移植手術を受けて新しい命をもらったカテンベ君。本当に彼が命を取りとめることができたのは奇跡でした。 日本中の皆さん、そして海外各地で暮らしている皆さんの応援をいただいて、よみがえったカテンベは、その後めきめきと成長しています。



写真は2006年腎臓移植手術後。順調に回復して新しい人生を歩みはじめたカテンベ君


今年は、ななななななんと、 カテンベは受験生なのです!!!

カテンベ、今年の6月で19歳になります。
病気のせいで学校に行くことができなくなり、だいぶ遅れてしまいましたが、今年、ピースジュニアスクールの小学8年生になることができました。














2010年は最初からほんとに嬉しいことがたくさんあり、
まずは、マイシャ・ヤ・ラハ基金の副会長、すぅさんがケニアに来てくれました!
長いこと、カテンベやマゴソの子どもたちを支えてくれている人が実際にケニアに会いに来てくれるというのは、子どもたちにとっても本当に嬉しいことで、どれほど励まされるかしれません。

そして、昨年10月からは、仙台のNPOアマニ・ヤ・アフリカの駐在員として、石原輝君・淳子さんがケニア入り!!

石原輝君・淳子さんとは10年以上もの長いお付き合いです。
まだマゴソができるよりも前から、キベラに来てくれて、
そして、マゴソができたのは、仙台のアマニ・ヤ・アフリカとの手を取り合っての協力体制によるものでした。

2006年2月にカテンベが危篤状態に陥ってからすぐに、アマニ・ヤ・アフリカがカテンベ募金のための日本窓口を引き受けてくださり、そのおかげで、カテンベの闘病、そして手術にかかった費用、約1000万円を、2006年2月から10月までの約8ヶ月間で、みんな力を合わせての多大なご協力のもとに得ることができました。

手術後、カテンベの腎臓移植基金はいったん精算し、
その後、カテンベが命をつないでいき、自立していくことができるための手術後の医療費と学費を、継続して支援していくことができる体制を作るため、「マイシャ・ヤ・ラハ基金」が立ち上がりました。

腎臓が両方とも完全に機能しなくなり、生死の境をさまよっていたカテンベですが、長年の腎不全のせいで極度の発育不良、骨もボロボロで体はとても小さく、ガリガリに痩せ細り、2006年には歩くこともできなくなり、危篤に陥りました。

ですが、本人の「生きたい」という強い意志のもとに、最悪の状態になっても彼は生き抜こうとして戻ってきました。
意識が戻ったとき、カテンベは、「神様のところまで行ってきたけど、まだ死にたくないとお願いして、自分の意志で戻ってきた。」と言いました。

そのカテンベは、母親から腎臓のひとつをもらい、
その後、順調に体力を回復させ、未来に希望を持ってがんばっています。

今回、すぅさんがケニアに来てくれたことと、石原輝君・淳子さんがケニアに移り住んだので、
カテンベに会いに来ていただきました。




今年カテンベは受験生なので、ほんとにがんばって勉強せねばなりません。そのための父兄会が学校で行われましたので、そこに石原輝君・淳子さんに来ていただきました。
その様子が、アマニ・ヤ・アフリカのブログにUPされていますので、ごらんください。
http://blog.canpan.info/amaniyaafrica/
↑このブログ内の、2010年2月13日(土)の石原輝君のレポートです。


さて、現在、私と大西匡哉のJIWEでは、
マゴソTV!のDVDシリーズと、マゴソCDの第三弾でレコーディングした歌を、作品化することに取り組んでいますが、
そのDVDシリーズの中の第一弾を、「アフリカ」と、「カテンベ」の2曲のPV、および、その歌の背景となる内容をレポートしていくことで制作しています。
そこで、カテンベに、彼の現在の心境や、将来への夢、命に対しての想いなどをインタビューして語ってもらいました。

このインタビュー現場には、マイシャのすぅさんに立ち会っていただくことができ、本当によかったです。

カテンベは現在、ナイロビのピースジュニアスクールという学校にお世話になり、寄宿させていただいているのですが、(これには、故ピーターオルワさんの奥さん、京子ママに多大なご協力をいただいています)、
キベラに隣接している学校です。
私はカテンベに薬を届けに行ったり、学校に学費を払いに行ったりなど、しょっちゅうカテンベに会いに行っているのですが、
こうして今回、あらためてインタビューとして撮影をしてみたら、普段の会話からはなかなか聞くことができない、彼の意志や想いが伝わってきて、それがとても力強く、あらためて、この4年間を振り返っていました。

カテンベは、生きていくためには一生薬を飲み続けなければならず、 この6種類もの薬と医療費、そして学費には、年間、約140万円ものお金がかかります。 移植された腎臓を機能させるために、高価な免疫抑制剤を毎日、朝6時半と夕方6時半の決まった時間に服用しなければなりません。

そのため、万が一、マラリアや赤痢、チフスなどの病気に感染してしまうと、命取りになります。
そのせいでカテンベは、故郷の村(モンバサ近くのミリティーニ村、マラリアの汚染地)に暮らすことはできず、衛生状態のよい寄宿舎で生活せざるをえません。

いつもカテンベに薬を届けるときには、誰もが驚くような大量の薬を箱に入れて届けます。
最初、カテンベの先生やクラスメートも、その薬の量に驚いていました。

今回、カテンベがインタビューで語った内容で私がとても印象に残ったのは、こんな話です。

「自分がこんなにたくさんの薬を飲んでいるのを見て、まわりの人たちは、いろいろなことを思い、いろいろなことを言う。あの子は病気なんだとか、こんなに薬を飲まなきゃいけなくて長生きできるの?とか、薬がなくなったら死んでしまうんだとか。
でも僕は、まわりがどう思おうとも、なんと言おうとも、自分がどう信じてどう思うかということが大事だと思う。
僕は、自分を病気だとは思っていない。
自分は健康体だと、他の誰とも変わらない完全に健康な体だと、信じているんだ。
だから、ずっと元気でいられるし、まったく不安はない。
こうしてずっと自分はこれからも元気で生きていけると信じているし、そう考えたら体がそれに答えてくれる。」

・・・と、このような内容を、カテンベは語りました。
とても強い意志に満ちた顔でそう話すので、圧倒されるような迫力でした。

そしてさらに、彼は将来の夢を語りましたが、
「ジャーナリストか音楽家になりたい」
と言いました。

「昔は、聞かれたら将来の夢を、大統領になりたいとか医者になりたいとか言ってきたけど、大きくなってきたら、ある程度、世の中の現実というものもわかってきた。
自分には何の才能があるかとか、そんな見極めもつけれるようになってきた。
まず自分は、ちゃんとお金を稼げるようになり、自立し、そして困っている人を助けられるようになりたい。
だから、雇われるのではなく、自分の力で、商売をするなり、フリーで仕事をするなりして、しっかり稼げるようになりたいと思う。
そして、自分は、表現することに才能があると思うので、世の中の様々なことをレポートして人々に伝えるような仕事をするジャーナリストになりたい。」

「そして、今の自分があるのは、助けてくれた皆さんがいてくれたからだし、今自分が生きていられるのも、自分だけの力ではない。
それを絶対に忘れずに、一生懸命がんばって感謝をしめしていきたいと思う」

こんなふうに、本当に力強くカテンベは語りました。
本当に、見事な成長ぶりだと思います。

これまでこうして支えてくださって、本当にありがとうございます。
生きるというのはすごいこと、
命あるということがこんなにもありがたいことだと、
いつも、カテンベの姿から、何度も何度も、想いをあらたにさせられています。

現在もこのカテンベを支えてくれているサポーターの皆さんですが、
約20名ほどの仲間たちが、レギュラーサポーターになってくれていて、現在、毎月自動振込みをしてくれる人、1年か半年に一度一括した振込みをしてくれる人、私が日本に行ったときに直接、現金で手渡してくださる人、など、本当にカテンベのことを親身に思ってくださる方々がカテンベの命を今も支えてくれています。
この継続的支援が、現在、年間で 984,000円 いただいています。

カテンベに年間に必要な費用は、およそ140万円ですので、
だいたい、40万円くらい足りない計算になります。

単発でいただく募金や、マゴソ第二弾CD MILELE の売り上げから10%をカテンベへの募金とさせてもらっているので、その分などをあわせても、毎年赤字になっていて、苦しい現状になっています。

このカテンベを、これからもどうか支えてください。
どうかよろしくお願いいたします。

カテンベへの募金は、マイシャ・ヤ・ラハ基金の口座で受付させていただいています。

マゴソスクール支援と同じ口座になっているので、
特にカテンベにご支援いただける場合は、
お振込みいただいてから私あてに、金額と、それがカテンベ用だということを記載してメールいただけると幸いです。
私のメールアドレスは以下です。
ecotour@gol.com

そして、マイシャ・ヤ・ラハ基金のホームページ
http://maisha-raha.com

マイシャ・ヤ・ラハ基金の口座

ゆうちょ銀行 記号 10070
番号 17463211
名義 マイシャヤラハキキン


カテンベは、とにかく自分がしっかり生きることで、助けていただいた感謝や、自分が命あることへの感謝を、しっかりと世の中に生かしていきたいという意志を、ますます強く持ち始めたように感じます。

どうかこれからも、カテンベを見守ってやってください。
どうかよろしくお願いします!

早川千晶

  


Posted by アマム at 14:19Comments(0)カテンベ君